本文へスキップ

親睦から奉仕の理想を生み出す Rotary Club of Engaru,A4,RID2500

  ■例会・プログラム資料等:ロータリー月間に当たって=ロータリー情報委員会(2014年1月23日)
歴史から学ぶロータリークラブの理念


参考資料
ロータリー文庫のデジタル化された資料
ロータリージャパンに掲載されている資料


ロータリーの創設

1905年シカゴにおいてポール・ハリスを中心に4人のメンバーで設立。
4週間後には9名になり、規約、役員を定める。
1業種1会員と例会出席義務の大原則を確認。
その頃のシカゴは無法と腐敗の町であり、経済界では商道徳に欠けた事業が行われていた。
孤独感と疎外感、そして過酷な自由競争に敗北するかもしれないという恐怖感が経済人を支配していた。
1業種1会員の原則は、互いの信頼感と安心感を増し、親睦を深めることが出来る。
この原則のもと、メンバーは互いに心を通わせ助け合っていく。
例会会場をそれぞれのメンバーの持ち回り(ローテーション)で行うことから「ロータリークラブ」の名称が生まれる。

目  的 
定款は以下の2点のみ
1 会員の職業上の利益の増大(互恵主義)
2 社交クラブに付随する親睦

会員の事業発展に伴い、同業者を排除していることから「我利我欲の輩」と非難される。
創設の翌年、1906年。
ドナルド・カーターを勧誘した際「利己的なことに終始するクラブには、将来性も入会の意義も認められない」と拒否。
ポール・ハリスは痛く反省し、12月に定款を改正し第3条を付け加える。
第3条
シカゴ市の利益を推進し、市民の中にシカゴ市に対する誇りと忠誠の精神を普及すること。
「クラブの親睦で培ったエネルギーを、挙げて世のため人のために放流しよう」と呼びかける。
職業人の倫理運動という側面で奉仕の理念を深めて行く。

アーサー・フレデリック・シェルドン
1911年の全米ロータリークラブ連合会第2回大会
「他人に最も良く奉仕する者が、最も多く報いられる」
企業経営者たる者は、特定の利潤獲得が、それと直接関係する者だけでなく、間接的にもこれと関わる人々の承認できるものであるか否かを、必ず心の中で検証することが絶対的に必要である。この思考プロセスを経て獲得された利潤を「prifit」と呼び、この経営的判断を「service」と呼んだ。
そして、企業の利潤追求において企業倫理の原則をその根底に置くがゆえに、企業の繁栄が、同時に、それと関連する地域社会に物心両面の幸せを配分するのだ、と語った。
このとき以降に、ロータリーでは職業人の倫理運動としての理念が深化されてきた。
1912年のグルースの大会時に「事業及び専門職務の道徳的水準の向上の奨励」という条項が綱領に入る。

近江商人の経営理念
1 三方よし「売り手よし、買い手よし、世間よし」
2 利真於勤(利は勤るに於いて真なり)「利益は、社会的な任務を果たすべく懸命に努力したことに対するおこぼれ」
3 陰徳善事「自己顕示や見返りを期待せず、人のために尽くしなさい」


1911年頃から身体障害者養護学校の設立運動が起こり、クラブとしての団体奉仕活動がロータリーの看板事業となっていき、各クラブが競って参加するようになる。
それに対し、ロータリークラブは職業奉仕のための団体であり、各ロータリアンの職業倫理の向上によって万民が幸福になれば、それがすなわち社会奉仕になるのである。それ以外に社会奉仕を行いたいのであれば個々のロータリアンが個人として行えばよく、クラブの活動として行うのは本来の趣旨に反する、との批判がなされる。
社会奉仕の主体をクラブにおくのか個人の活動におくのか対立が生まれ、分裂の危機にまで発展した。

この問題の解決のため1923年のセントルイス国際大会時に23-34決議が決議され、分裂の危機を回避した。
23-34決議とは
ロータリーの意義、目的、価値、活動を明解に定めたもの。


第2次世界大戦とロータリー

1905年(明治38年)ロータリー設立
1904年~1905年(明治37年~38年)日露戦争
1914年~1918年(大正3年~7年)第1次世界大戦
1917年(大正6年)ロシア革命
1920年(大正9年)に東京ロータリークラブが創立(米山梅吉氏)
1922年(大正11年)ソビエト連邦成立
1923年(大正12年)セントルイス国際大会時に23-34決議
1923年(大正12年)関東大震災
(17カ国503ロータリークラブから89,800ドル〈内R.I.から25,000ドル〉もの義捐金が寄せられた)
1924年(大正13年)アメリカで排日移民法が立法
1926年(大正15年)世界で2,000ものクラブに発展
1927年(昭和2年)昭和金融恐慌
1928年(昭和3年)大連RC設立
           日本が第70地区に設定される(日本、朝鮮、満州をあわせて)
           初代ガバナー(米山梅吉氏)
1929年(昭和4年)世界恐慌
1930~31年(昭和5年~6年)昭和恐慌
1931年(昭和6年)台湾RC設立
           満州事変
1932年(昭和7年)五一五事件
1933年(昭和8年)ヒトラーが首相に就任
1933年(昭和8年)国際連盟脱退
1935年(昭和10年)ポールハリス夫妻来日
1936年(昭和11年)二二六事件
            スペイン内戦 スペイン内の36クラブを閉鎖
            ドイツの42クラブが閉鎖
1937年(昭和12年)オーストリア、イタリアでクラブ解散
            支那事変
1940年(昭和15年)内務省より解散命令
            東京ロータリークラブ解散(米山梅吉氏も出席)
            日本がRI脱退
1941年(昭和16年)太平洋戦争
1945年(昭和20年)終戦
1949年(昭和24年)国際ロータリーに復帰
1951年(昭和26年)サンフランシスコ条約締結



アメリカと敵対的な国々ではロータリークラブは敵視され、解散に追い込まれて行った。

日本では満州事変の翌年(昭和7年)頃から軍の弾圧を受けるようになる。
RCはアメリカに本部があることから「アメリカのスパイの手先」「フリーメイソンの一派の秘密結社でスパイの温床」と非難を受ける。
国際団体であるという理由だけで亡国的であると断じられ、スパイ呼ばわりされ、新聞紙上でも解散すべしと論壇された。
1933年(昭和8年)京都RCに右翼の一団が押しかける
           当時の石川会長が3ヶ月に渡って論争を続け、最後は特高と渡り合う。
英語の歌を歌うのがけしからん、ということでこの事件をきっかけに例会時に国旗の掲揚と国歌斉唱が始まる
1939年(昭和14年)京都RCで浄財を集め、両国の悪化を防ぐべくアメリカに英語のうまい人物を派遣して演説してまわった。
1940年(昭和15年)内務省より解散命令のでる前に、京都RCは解散か存続かで激論を戦わし、ついに分裂する。
8月に分裂しそれぞれ例会を行うが11月に和解。水曜会という名で活動を続ける。
日満連合委員会(70区東日本、72地区西日本、72地区朝鮮満州の3つ)を組織し、RCを国家単位に改組する提案をする方針まで決定したが、世論の圧力には抗しきれなかった。
日本のロータリークラブはすべて国際ロータリーを脱退し解散。
しかし、名前を変えて活動を継続したクラブも多数(29クラブ?)にのぼる。

終戦後、各クラブ間での連絡が始まる。
北海道では札幌、小樽、旭川などの出席率の記録などが残っている。
1949年東京仮ロータリークラブができ、3月29日に再登録され国際ロータリーに復帰。
その後陸続と復帰を果たして行く。
1946年(昭和22年)に米山梅吉氏逝去。
1949年7月1日(昭和24年)に日本に地区が復活。
1950年戦後初の第60地区の地区年次大会が京都で開催される。
参加者30クラブ681名。



幾度の困難を乗り越えて今日のロータリーがあります。
100年の重みをあらためて噛みしめ、ロータリアンとしての誇りを持ってロータリー人生を楽しみたいものと思います。

参考
「決議23-34」
「ロータリー宣言」(大連ロータリークラブ宣言) 1928年、古澤丈作会員起案